2005年08月23日

戊辰戦争−(2)付録:勝海舟と坂本竜馬

勝海舟は幕府の開明派として、開国論、貿易振興論、日本人同士の不戦論を明確に主張していた。後に、同じ主張をすることになる坂本竜馬と勝海舟は、どのようにして出会ったのだろうか。

江戸の千葉道場で北辰一刀流の剣術修行中の竜馬は、師範の千葉周作が福井藩邸で剣術指南をしていることから、藩主・松平春嶽に会うことができた。そして勝海舟との面会の紹介状を春嶽に書いてもらうことに成功し、1862年10月、竜馬にとって勝海舟との運命的な出会いが実現した。

勝海舟の開国論を暴論と思い込んでいた竜馬は、場合によっては斬る覚悟で勝に会った。竜馬の覚悟を事前に知っていた勝も、幕府講武所の教授を勤めるほどの剣客である。勝は落ち着き払って、今の世界情勢と自分の主張を理路整然と語った。竜馬は勝の世界観と信念と説得力に強い衝撃を受けた。竜馬は深く頭を下げ懇願して、その場で勝の弟子にしてもらった。竜馬は姉の乙女への手紙の中で「日本第一の人物、勝燐太郎殿という人に弟子になり・・・」と誇らしげな気持を書き送っている。

早速、築地操練所と神戸操練所にも参加した竜馬は、勝海舟に重用され秘書役にもなり、西郷隆盛ほか多くの重要人物に紹介されたり、外国との重要な交渉の場に同席して、高度な交渉術も学んだ。

一方、幕府守旧派にとっては開明派の勝海舟は常に危険な存在であった。池田屋事件で操練所の一員が殺されたということが発覚したり、操練所に密貿易の嫌疑が掛かるなどの事件が起きた。その結果、1864年10月、勝は軍艦奉行を罷免され操練所は閉鎖された。

竜馬は勝と別れ一人で理想を追い求めることとなった。勝と竜馬の師弟関係は2年という短い間であったが、勝の存在は竜馬の人生の方向を決定づけ、竜馬は勝の理想を完全に自分のものにしていた。
開国・貿易振興論で亀山社中・海援隊を1865年に創業、国内不戦論では1866年に薩長同盟を成立させ、船中八策の起草から大政奉還を1867年に実現させるなど、竜馬は見事に自分の理想を実現したのであった。

1867年11月15日、坂本竜馬は暗殺された。勝海舟は竜馬の死を最も悔やんだ一人であった。
同じひつじ年であったという坂本竜馬と勝海舟は、竜馬がひと回り年下であったが、お互い以心伝心で通じ合い、性格も似ていたのかもしれない。
おGさんもヒツジ年なので、この偉大な二人に深い尊敬の念と強い親しみを感じる。
posted by おGさん at 07:49| 京都 ????| Comment(0) | TrackBack(1) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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龍馬暗殺について??歴史学者(幕末政治史研究者)の意見を参照することのすすめ??
Excerpt: 慶応3(1867)年、11月15日、坂本龍馬と中岡慎太郎が暗殺されたことは有名で
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Tracked: 2005-08-24 16:23